まじめな人

 大学生になるまで、あるいは大学生になってもしばらくのあいだ、僕は表立って楽しく「ふざける」ということができない人間だった。はたから見れば、わりに絡みづらさのある人間だったのではないかと思う。僕自身もその当時は気軽に他人に話しかけたりできるようなメンタリティの人間ではなく、それこそ自己開示ゼロの「なんかよくわからない奴」のポジションにいたのではないかと思う。とはいえ、面と向かって人に「あいつはよくわからないやつだ」というようなことを言われることはなく、代わりに「まじめそうな人」という形容をされた。それはそうだ。変なことをするわけでもないが、特に面白いことをするわけでもない。そのようなさして特徴のない人間を形容するのに「まじめ」という言葉はぴったりだ。

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 とはいえ、それでも大学のサークルにはこんな僕にもフランクに話しかけてくれる人たちがいて、そういう人には少しづつ心を開くことができた。彼らは飲み会でワイワイ騒ぐ人間たちだったし、サークルのイベントでもうまく羽目をはずすタイプだった。

 それから、僕はサークルで先輩や後輩ともうまくコミュニケーションを撮ることができていない人間だったように思う。コミュニケーションを取れない、というのは彼らの会話と咬み合わない、という文字通りの意味というよりかは、先輩からみた自分という後輩、後輩から見た自分という先輩としてどのように振る舞えばよいのかが、大学に入るまでほとんどと言っていいほどそのような立場関係の中にいたことがなかったこともあり、分からなかった。今思えば、そんな振る舞いなんて自分らしく自分が好きなように振る舞えば良かったんだなと思う。笑い声が楽しくていつも面白い話をしてくれる先輩、真面目で無口だけど音楽のことになるとアツく語りはじめる後輩、etc... その頃を思い出せば、いろんな種類の人間が回りにいたように思う。僕はおそらくその中にあって自分というアイデンティティがなんなのか、ということを考えすぎるあまり、人とどう会話をすればいいのかが分からなかったのではないかと思う。ともすれば、これもまた一種の自己開示だった。自分という人間が自然体でどのような行動・発言をするのか、というのは自分自身のアイデンティティであるが、それを開示できないがために人とのコミュニケーションが難儀なものになっていたわけだ。

 休学中、様々な企業でのインターンや外部のイベントに参加して、大学のサークル以外の様々な人間と交流して友達になる機会が増えた。僕の周りにはまたいままでよりも多くの種類の人間が現れるようになったが、そこで最も思うことは「まじめな人」や「堅い人」というのは、どちらかといえば絡みづらい、ということだ。もちろん仕事上の付き合いであれば、特に相手と仲良くなろうというようなことは思わないだろう。けれども、そうではない飲み会やイベント後の懇親会などの、極めて人間的なコミュニケーションの場において「堅い」「まじめ」というのは、どうしても近寄りづらく、踏み込みづらい雰囲気を出してしまう。

 それどころか、普段からまじめであることによって生まれるデメリットもあるのではないかと思う。もっとも大きなものはギャップだ。真面目な人間がいきなりふざけ始めると印象が悪いが、その逆はむしろポジティヴな効果のほうが大きい。そのような人間は「あいつはやるときはやるオトコ」のような印象を相手に与えることができる。キャラ立ちとしてもとてもおいしい。これはある種のブランディングだ。思い返してみれば、あまり僕の人生の中で素でまじめな人間が良い評価を得てきたシーンを見てきた記憶がない。僕の人生の中で目にしてきた一見まじめな人間は、多くが途中で酒や女遊び、色恋などに舵を切っていったようだ。いや、これはもしかしたら僕の周りにそのような人間が多かっただけなのかもしれないが...

 少なくとも、僕自身は「まじめな人」という評価によって得をしてきたことはなかった。というよりも、そもそもそれは世辞としての「まじめ」という形容でしかなかった。僕の経験に限らず、誰かの言う「あの人はまじめだから」という言葉のどこにも、その人に対するポジティヴな評価は含まれていないのではないかとすら思う。