読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

いまのはなし7

 10月になった。このまえ最後にここを更新したのは7月らしい。7月はといえば、とあるIT企業でインターンを丁度していたころで、わりとこれまでとは毛色の違う形態だったのでいささか疲弊していたらしい。いや、明確にそのころ、つまり7月の記事を書いた時の記憶があるわけではないが、記事を見るとどこかしらナーバスな気分を感じる。そういう気持ちのときに文章を書くというのは比較的よい手段で、なにかしらのこう思うことを文章にして吐き出すことである種のデトックス的な効果を得られる。とくに何を書こうというわけでもないし、誰かに何かを伝えたいというわけでもない。これは本当で、誰かに絶対に伝えたい何かというのは今はなにもない。たとえば「時をかける少女」で真琴は自転車に乗る功介と果穂に彼らが自転車のブレーキが壊れているがために踏切の遮断機の前で止まれなくなるということを伝えなければならなかった。それは彼女にとっては「伝えなければいけないこと」だったし、それが彼女以外のだれにとっても伝える必要のあることではなかったとしても、彼女自身にとってはまた別の話だ。まあ、冷静になるとあんな谷のどん底に電車を走らせるというのも街の構造上どうかとは思うが。功介たちの乗る自転車云々ではなくいずれ何か大きな問題が起こる気がする。

 さて、けれども「伝えなければいけないこと」はこれまで思い返してみると少なからず自分自身にもあったのではないかと思う。それは「自分のため」に伝えなければいけなかったときもあるし、「誰か他の人のため」に伝えなければいけなかったときもある。あのときああ言えばよかった。あのときこうしておけばよかった。結局は全て後悔の一種だ。後悔していないといえばウソになる。自分の人生がそれによってダメになったとか、おかしくなったとか、そういう次元の話ではない。けれど、そうしておけばなにかしらいまはまた違ったものごとに見方だとか、考え方ができたのかもしれないと思う。本当にそうなのかはわからない。自分が経験していないことや、見たことないものを過大評価しがちなのが人間で、ぼくもそこからは解脱できていない。こうしてみると自分の中が後悔でいっぱいの人間のようにも見える。けれど以外にも絶望していないのは今がそんなにつまらないものでもないからかもしれない。死にたくなるということはない。就職活動で上手く行かないと死にたくなるらしい。大学の授業で、ヘーゲルによると人間が人間たるのは承認願望をなにかしらによって満たされているときであって、それが失われると人間は死ぬのだと教わった。まあたしかにそうかもなーとは思う。たとえば家族から村八分にされたり、地元の友達がみんないなくなったり、そういうことだ。大学ではもう最終学年で、同期はもう就職組だ。みんなもう大学には来ないし、大学の構内でばったり出くわすようなあの頃の時間はもう戻らない。これが大人になるということで、みんな自分自身のそれぞれの人生を生きていくのだと思う。むかしは自分が大人になるなんて信じられなかった。学校の教育実習に来る大学生は担任の先生と変わらない大人に見えたし、彼らがぼくやぼくの友達のような大学生だったとは、今思い出しても思えない。そうこうしているうちに僕ももう22で、世間ではまだ若い世代だ。大学入学後はすぐには大学に馴染めなくてなあなあに毎日を過ごしていたけれど、19から22まではめちゃくちゃに早かった。信じられないスピードだ。僕にとって大学はちゃんと勉強をする場所で、真面目に授業もちゃんと受けていた。以外にも授業は楽しいものが多くて、そりゃもちろんつまんない授業だとか、夜ふかししてしまった日の翌日の授業では寝ることが多かったけれど、それでも概ね自分が知って損をするような授業はなかった。そんなこんなで自分の意識の高まりとともに休学をしてインターンをしまくった。一年という休学の期間は終わってみるとそんなに長くは感じなくて、終わってみると本当にあっけなかった。大学の知り合いはぼくとはまた違うスピードで時間を過ごしていて、一足に先に社会へでるらしい。ちょっと前まで同じ大学生だった彼らが社会人になるということはそれはもちろん自然なことなのだけれど、それがあまりにも自然すぎて違和感を感じる。高校を卒業して大学に入学して、ぼくはすぐに大学生になったけれど、そこに高校生と大学生の違いがあったのかと言われると、まったくなかった。たぶんそこには違いなんてなにもない。卒業したサークルの先輩たちはなにも変わらず先輩だし、同期もきっとこれからも同期だと思う。人生の夏休みとも言われる大学での生活でできた友人たちがまたひとり、またひとりと減っていくのは寂しさを感じる。これが結局ぼくの言いたいところだ。これまでは、小学校を卒業しても、中学を卒業してもみんなはまだ若くて―それが社会人になるとどう変わるのかはわからないけれど―おなじ高校生で、そして今は大学生だった。ぼくは自ら自分の選択を下して、それは結局のところ間違ったものではなかったし、むしろ良い結果として実を結んだ。それでも選択を下すということは他の選択肢を潰すものだったし、得るものと引き換えに失うものもあった。ぼくの過ごせる時間は直列的で、なにかを一気には選べない。どうやらそれに納得できるほど、ぼくはまだ大人ではないらしい。でもそれに納得するのが大人で、ぼくは大人にならなければいけないと思う。

ちなみにこのラップを聴いていてこういう文章を書く気分になった。