いまのはなし6

 久しぶりに7月分の記事を更新しようと思う。実は意外にも毎月記事を一本は必ず書こうと思っていた時期があったのだが、なんだかんだでちょこちょこと忙しい時期が重なりいつのまにやら6月になってしまっていた。6月はというといわゆるハッカソンにでたりサークルのライブに行ってみたりと実はいろいろと盛りだくさんであったので、それが記事更新の忘れにつながっているのかもしれない。それだけなんらかのイベントまみれで充実していたのなら別にブログの記事は更新しなくてもいいかという気持ちにもなるというものである。

 ところで実際こうして記事を書き始めると、やはりというかなんというか、全く持って書くことなどなかったということが分かり始めるわけである。このブログのこれまでの記事を見てもわかるが、特に何かしらテーマがあって文章を書いているわけではないのであって、そこへこうして無理矢理に毎回文章を放り込んでいるということは、当然雑多な内容のものになるわけである。テーマの指定がないというのは非常にむつかしい。誰かに何かをやれという意思のもとになにか行動をするのは非常に楽だ。それは最終的なゴールや、達成するべきものがすでに明確になっていて、ある場合においては自分の考え方や工夫が全く持って必要とされないことも起こりえる。そうなれば、思考を巡らせる必要もなくただ淡々と作業をこなしていけばよいというだけである。これを選んで好むようになってしまうと、実際には社会的な評価というものが著しく下がるような気がする。言い換えればそうした作業しかできないロボット同然だからである。ロボットのように動く人間は、自ら故障を認識して修理できるという利点もあるが、一方でそれこそ精神的なコンディションや、気分などのような非合理的な原因の元でパフォーマンスを落とすこともある。そうなれば、結局ロボットのほうが今の時点では、単純労働をする人間より優れているという見方もできるかもしれない。だがしかし、その社会的評価とはなにか。社会からこいつは使える人材だという評価を下されることがそんなにもスバラシイことなのか。実際はそうは思わない。アウトローではあるが、労働力として優れている人間が必ずしも優れているのか。この点を評価するのは様々な角度からむつかしさがつきまとう。自分自身がどういう評価を求めているのかという見方をすれば、最終的な着地点は見つかるはずであるが、それを納得できるかできないかも、自分自身の納得にかかっているというわけである。私見ではるが、世間一般の多くの人間は、苦せずして対価を得られるものを好む傾向にあると行ったところで、何人からも批判を受けることはあるまい。もちろん楽できるなら楽したいし、ストレスは抱え込みたいくない。一方で、全くもって働かないというのも僕個人としては、ひとつストレスの要因になるものではないか。それはいわゆる承認欲求とよばれるもので、楽している自分が誰からも必要とされていないことになんとも違和感やストレスを感じるというのだ。傍から聞けばなんと傲慢な、と思うこと請け合いであるが、これに同調できる人間はさほど少なくないはずである。多少哲学てきではあるが、自分が生きる理由とは果たしてなんなのか。それを考え始めるとキリがないが、もっとも根源的で納得が行くものはまさに誰かから必要とされるということである。まさにきくだけでは他力本願の頂点のような見方であるともとれるが、自分以外の人間によって存在を肯定されている、いやそれどころか存在を必要とされているというだけで、生きる理由の答えは出たも同然である。この世の中には答えの出ないものが腐るほどあって、人間の生きる理由なぞすでに何千年という歴史の中で腐り果てている命題ではないか。そうした腐敗物を処理するひとつの優れた方法のヒントは承認欲求の中に隠されているわけである。いやしかして、その承認欲求を満たすことはそう簡単ではないというのが私見である。自らの何かを認めてもらうためには、認められうるだけのなにかを所有していなければならない。いや、仮に所有していないとしても、逆に自分がだれかに見返りにたるなにかを渡せばよいのではないかということもある。どちらも取りうる選択肢ではあるが、一概に答えがだせるものではない。我々は人間であるし、人間の存在は非論理的である。合理的選択の根底に眠るのは非合理的な直感ではないか。心臓を持ち、人体という入れ物の中で生きている限りは「生きたい」という欲求から逃れることはできないし、それを無視して選択を生み出せる人間はもはや人間ではない。