いまのはなし

 とっくに前回のエントリでなにが言いたかったのか忘れてしまったけど確かエッセイがどうのみたいなことを書こうとしていた気がする。だいたいそういうトピックっていうのは揮発性のものでそのときのノリが維持できないとあっというまに雰囲気とか他の考えないといけないことに流されてどうでもよくなっちゃうことが多い。今回もそういう感じで、丁度前回エッセイ云々について書いていたことはさておきまた別のことについて何か書こうかなという感じではてなブログのエディタページを開いたわけである。ただまあ、ここまで何とか言っても思い出してきたのはもしかするとなにかこう神の啓示的なものを感じなくもないので少しは前の話に触れていこうと思う。

 さて自分は日本から遥か東へウン千キロいったアメリカ合衆国にいる。来てから4〜5週間もたってくると早くもアメリカという国の雰囲気がだいたいどんなものかはわかってくるもので、当初よりも案外「あ〜こういうものなのかここは」みたいな感覚によって慣れは加速しているように感じる。例えば、自分の周りにはいないが、若者によくある自分探しのための世界一周旅行。これは自分が思うには有効でない時と有効なときがあるように思える。ある一つの国なり場所なりに滞在していると、少しそこで時間を過ごすだけでまあまあどんなもんかは分かってきてしまうので、「自分を見つける」のに必要なカルチャーショックっぷりはそんなに体験できないんじゃないかということ。逆にそれぞれの国で滞在する期間を一週間とかそこらにしておけばもうショック死しかねないくらいのカルチャーショックが体験できるのかもしれない。その国のカルチャーにショックを受けるためには自分の考えていたことと違えば違うほどいい。そう考えるなら小さいうちからできるだけで狭いコミュニティで世間をできるだけ知らないようにこそこそ生きるのがよいだろう、たぶん。

 自分の場合はカルチャーショックを受けにアメリカにきたわけではない、と言いたいところであるが、それでも幾分はかっこよさげなフレーズたる「自分の価値観」の変化とか「新しい自分」みたいなものがその辺の道の脇から見つかるんじゃないかと思ったりしなかったこともない。とはいえその既存の自分とか価値観とかがどこにあるかが比較以前の問題としてはっきりしていなかったのでよくわからない。自分の価値観とは一体なにか。かっこつけるわけではないが自分は割りといろんなことにオープンなので、誰かが何をするべき、とか、あれはああいうふうにあるべきだ、みたいな固定観念・ステレオタイプ的思考はもっていないと自負している。それはもう男女同権とかLGTMみたいなものから世界平和(世界平和については実はまだ自分のこととして捉えられていないフシがあるのでここはもう少し貢献心をもたないと行けないと思っている。テロとか移民とかとりわけそういうもの)まで幅広い(?)気がする。どこに格好をつけた要素があるのかというと、自分はタダ事では動じないぜ、タフだろメーンという雰囲気がここからでそうだなと思ったので予め予防線をはってみただけだった。

 カルチャーショックといえばまずこっちの若者の食べ物がろくでもないことに一つ驚いた。自分が住んでいるのがどうしようもないシェアハウスだからなのかもしれないが、みんな夕飯に適当なピザやサンドイッチ、しまいには朝昼晩とぶっつづけでシリアルを食べる奴もいる。自分は別に他人が何を食べようが餓死しようがまったくどうでもいいと思っているが、しかしどうでも良くないのは自分の食べるものである。ではさて自分は何を食べるかと言われれば近くのマダム御用達(自分の住んでいる地域がなんか高めのものしか売ってない)のスーパーでいつもできたての盛りつけた分だけお金を払えばいい擬似ほか弁みたいなものを食べたり、あるいはとうとうこの前はよるにシリアルを食べてしまった。これで自分もはれてそのシェアルームのどうしようもないピープルの仲間入りを果たせたというわけである。

 母親は偉大だ、と思った。自分が変えれば遅くてもある程度の食べ物は用意してくれていたし、どれもおいしかった。なんとスバラシイことか。自分で飯を準備するのがこんなにも面倒で、こんなにも飯を食べることは重要だったのかと。朝と昼はまあいいが、夜を抜くのはなぜだかわからないが精神的にすごくモヤモヤする。夕飯は精神安定剤なのだ。一日がどうだろうと、とりあえず夕飯を食べて寝る。これだけで一日が終わるんだ、というシグナルが自分の中で出る気がするのである。さあ諸君、朝はさておき夕飯は必ず食べよう。なにかうまいものをたべよう。

 飯に関して言えば、こっちは何でもかんでも高い。そもそもサンフランシスコは飯が高いのである。自分はケチなので、昼飯には五百円くらいしか使いたくない。日本でインターンをしていたときには、同じ会社の人とと飯を食べに行くと高いところへ必然的に行かなければ行かなくなるので、先に抜けだしたりまだおなかすいてないですと言ったりして、あとでひとりで一駅離れた松屋でねぎ塩豚丼を食べていた。これはたしか一杯450円なのだけれど、非常にうまい。おととしに行った免許合宿で教習場の飯がめちゃくちゃにまずかったので、そこの教習場から少し離れた松屋でこれを食べて以来、なんどもリピートしてしまっている。

 だがここアメリカではそれは通用しない。450円すなわち約4ドルではお腹を満たすことはとてもではないができない。少なくとも我々が腹を満たすためには6-7ドル(7-800円くらい)を少なくとも払わねばならないのである。こっちで働く人たちは大体が高給取りなのでこれだけ払っても屁でもないが自分は日本からきたネイティヴジャパニーズなので非常に気に食わない。同じ会社で働く社員の人に言わせれば、日本が安すぎるのだという。もっともである。確かに日本の物価は安い。コンビニエンスストア松屋ココイチ吉野家、その他もろもろのどこでも同じ値段で同じ質のサービスを提供する日本のホスピタリティには涙を長さざるを得ない。だがこれはある意味ではサービスに対して適切なペイをできていないということにも通じる。フランス人のシェフが日本にきたときに、日本の飯の質とその値段があまりにもかけ離れており、みんなどうやって生きているんだ?と疑問に思った、というポストをTumblrで見た記憶があるが、まさにその通りなのかもしれない。ただとりあえず言えることは、自分は有給ではなく無給インターンなので、あまりでかい出費はしたくないということである。そうなるとまず削られるのは食費である。だが食事を切り詰めて始めて分かったことは、自分にとって食事が以外にも大事なものであったと、そういうことらしい。