自己開示のこと

 ふと最近、もしかして自分は自分自身の自己開示が足りないんじゃないかと思い始めた。

 自分が大学2年生になるかならないかくらいのころ、他の人ととの会話がなぜかめちゃくちゃにつまらなく感じるようになった。そのときには原因がなんだったのかは結局わからずじまいだったけれど、意外にも自分ではそのことにとても悩んでいた。高校のころは、学校に自分が友達だと思えるような人間はひとりもいなくて、唯一所属していた軽音楽部にいる同じ学年で違うクラスのアコギ弾きだけが毎年の文化祭でデュオのライブをしたりするほどの関係だったが、それでも自分のクラスでは毎日昼休みにイヤホンで音楽を聞きながら「かもめのジョナサン」やら村上春樹やらを読んでいたのを覚えていて、それはそれでなんだかんだ自分の中では充実していた。幸いなことに自分の高校は男子校だったので、へんな見栄のはりあいみたいなものもなく、フルぼっちだった僕もいわゆるいじめの対象になることはなかった。それどころか、その当時は比較的クラスの中でも英語ができる人間だったので、あいつは英語と音楽が好きな変わり者、みたいな独特のキャラクターとしてある程度は見てもらえていた。高校3年間の中でTwitterFacebookで連絡先を知っている友達はひとりもいなくて、そういう意味でも高校生活で僕が人間関係で悩んだり苦しんだりすることは全くなかった。

 家でも、親には学校で友達とかいないということはちゃんと打ち明けていて、それはそれであまり心配はしていないようだった。それよりももっと謎だったのは、友達もいないのにほぼ毎日休まず学校へ登校していた僕の律儀さだったらしい。いくら学校がつまらなくても、自分の中で学校をサボってゲーセンへ行ったり満喫で時間を潰したりするという考えは全くなかった。それ以前に僕の学校はアルバイトが禁止で、親も毎日必要最低限のお金しかくれなかったので、そう考えると色んな意味で拘束されていたのかもしれない。

 話がそれた。とまあ、こんなことがあって大学へ入るまでは普通に数カ月人と会話をしないなんてこともザラで、授業で初めて声を出すから一回咳払いをしないとかすれて声がでないなんてのも普通にあった。そんなこんなもあって、僕は人とどうやってコミュニケーションをとっていいのか、というところがよくわからなくなってしまった気がした。

 高校の頃に軽音楽部に入っていたことが幸いして、僕は大学でも軽音楽研究会に入ることにした。実際にはギターよりもプログラミングをするほうが今思えば自分は好きだったけれど、そんなことよりもまずは大学で自分のいられる場所を作るほうが大事だった。大学に入って驚いたのは、高校と違って、自分が常にダラダラしていていい場所、つまり高校で言えば自分の机にあたるものがどこにもなかったこと。当たり前だけど。そういう意味ではサー室というのはとてもありがたい存在で、自分の知ってる人間だけが集まる温かい場所だった。大学入学直後は、ほぼ毎日授業の合間ごとにサー室に出入りしていて、その当時僕の持っていたスマートフォンがバッテリーの容量が少なかったこともあり、スマホを充電しにくる新入生の子、みたいな印象を先輩には持たれていた。実際には、学内には探せばわりとコンセントが使える場所はあったが、まだ大学に入ったばかりで、かつ数年間もコミュニケーションから離れてきた僕にとって、知らない人間で溢れかえる大学はそこかしこがあまりにも心の落ち着かない場所だった。

 ここでようやく大学2年生の初めにはなしが戻ってくる。大学2年生の初めともなると、ようやく大学にも慣れてきて、サークル以外で、学科にも同期の友達ができてきた。そうなると、ほとんどサー室には行かなくなった。サークルの学内ライブにも何度か出たが、なんともあたりまえのことではあるけれど、練習をしなければギターがうまくならないということが自分にとってはストレスだった。加えてそもそもうまくなりたいほどギターが自分は弾きたいのかというとそうでもなかった。楽器自体は中学から涼宮ハルヒの憂鬱の影響を受けて始めたものの、ギター自体への情熱は高校在学中でほとんど燃え尽きていた気がする。

 そのころの自分がなんとなく感じていたのが、他の人が楽しく話していることが自分にとっては特に面白くなかったということだった。例えば、複数人のクロストークでは誰かがなにかをはなすが、自分以外のみんなが笑っている話題が自分にとっては何も面白くないことが頻繁にあった。なんだそんなこと、と今回想すると思えるが、そのときはもしかして自分がおかしいんじゃないか、ということに本気で悩んでいた。大学に入り、サークル、学科そのほかいろんな関わりの中で対人コミュニケーションが生まれたところで、ふと自分の違和感を感じたのだと思う。ただ、結果から言うと、その悩みは自分の中で解決することになった。つまり、ある日ふと「あっ、これは自分がおかしいんじゃなくて、他の人たちがみんなおもしろくないだけだわ」というどこかからの神託を受けた。そのときの心の晴れ方は本当に半端ではなくて、自分の周りのなにもかもが自分を中心に回っているのだという清々しい気持ちに心打たれた。今思えば、これは本当にベストな選択肢に足を踏み入れていたと思う。偶然にも。

 ただ、自分でも認めるところではあるが、自分はあんまりコミュニケーションが得意ではなかった。なぜコミュニケーションが得意じゃないのか、というようにもう少しこのことについてブレイクダウンしてみると、そもそも僕は自分が興味のない物事に集中力を傾けるのが得意ではなかった。だから、他人との会話、とりわけ雑談があまり好きではなくて、会話の話題が急に興味のない話題になると、会話へのエネルギーがあっという間になくなってしまう。概して他人のする会話に興味がないというのは僕の周囲の、とくに男友達は多くが同意してくれるところではあるが、その「興味のなさ」の度合いが、僕はどこかしらパンピーの範疇を超えているような気がするわけだ。それも、困ったことに割と態度や顔にその感情がでてしまう。こいつは本当に困りごとだ。この「興味のない態度」は、ある程度仲のよい友達になると、それはそれで受け入れてもらえるものではあるけれど、あまり親しくない間柄でやられると、この僕でも「なんじゃこいつは」という態度になる気がするわけだ。

 これ自体は予てから自分の中で認識していた僕のコミュニケーション上の弱点ではあったのだが、ここ最近で加えてふと感じたのは、会話の中でそもそも自分自身の自己開示をしていることがあまりないのではないか、ということである。というのも、自分の中では、たとえば初対面の人となにか会話をするときに、そもそもその関係のコミュニケーションが盛り上がらないというのは当たり前で、そんなに深い会話をすることがまずないという前提が長きにわたってずっとあったからだ。当然ではあるけれどこの考え方は間違えていて、それを言い始めると大学で仲のよい友達はなぜ僕のことを理解してくれているのかという疑問には答えられない。人によっては僕はどうやらある程度の自己開示をしているようではあるけれど、他の人と比べるとその量はあまり多くないと思う。とはいえ、自分以外でどれくらいの人たちが、どれだけ自己開示をしているのかということを考えると、思い返して見る中ではみんながみんな自己開示をしているとは思えない。もちろん、自己開示をするタイミング、しないタイミング、この2つがそれぞれあることは間違いないけれど、これはもしかすると自分自身が相手に対して自己開示をしてこなかったから相手のことを知ることができずに終わってきたのではないかということだ。たとえば、あの人は自分とは特段仲のよい関係とは言いづらいが、他の人とは仲がよい、というのはそこに彼・彼女らのあいだで然るべき自己開示があるから、というわけである。

 なるほど言われてみればまったく当然のことではあるけれど、端的に自分は他人とのコミュニケーションが下手なのだ、という思い込みではこの考え方は出てこなかったように思う。この考え方に至ったひとつのエピソードとして、あるイベントでの経験に触れたい。そのイベントはとあるIT系のイベントで、自分は初参加でちょっとは緊張していたのだが、自分が会場に着き、イベントの開始を一人で待っていると、となりに座ってきたお兄さんが話しかけてきたのだ。これ自体は特段面白おかしいことではない。そもそもイベントで人に話しかけるというのは普通だ。彼が一味違ったなと自分で思うのは、会話のバトンが彼に渡ったときの彼の会話の量が明らかに僕とは違うというところだ。つまり主導権が彼にあるときには、彼は自分の経験や持論を展開するし、相対的に会話の量は多い。ただのおしゃべりと言われてしまえばそれで終わりではあるが、おしゃべりであることがここでの本当の強みだ。ともすると「自分の話ばかりしすぎてうざいと思われないか」「この話題は他の人にとってつまらないんじゃないか」みたいな、単純な他人からの評価軸という恐怖はいつでも僕の頭にある。思い返してみれば、小学生や中学生の頃にこんな心配をしたことはなかったし、自分の会話について考えをめぐらしすぎることも全くと言っていいほどなかった。大学に入り、これまでの自分の活動圏とは全く異なる人種のひとたちと一緒になったり、インターンを経験して社会人のコミュニケーションというものに触れるにつけ、自分自身を積極的に自己開示するということに対して「怖い」という気持ちを持ってしまうようにもなる。この原因にはもしかすれば、高校の頃の経験も関係しているのかもしれない。

 けれど、僕が感じる僕自身の自己開示に関するひとつの障害となっていたのは、そもそも「怖い」というものではなく「諦め」だった。どうせ自分のことを話しても相手には興味は持ってもらえないだろうという、行動に移す以前の自分自身の正当化だったのだ。これはある意味では「怖い」という感情への回避行動なのかもしれない。確かに、自己開示をすることで自分が認められない、というところには「怖さ」がある。だが、相手が自分をDisるかそうでないか、という問題以前に、自分自身がまず自己開示をしなければ、それ以降のコミュニケーションが先へ進むかは分からない。僕はコミュニケーションをしようとする姿勢を持つまえに、はなっから相手のことを諦めていたわけだ。

 果たして、いつからこんな考え方をするようになってしまったのかは分からない。これに限らず僕の中ではいろんな「諦め」が自分自身の考え方を縛り付けている。まず、僕はこの「諦め」を自分の中から追い出さなければいけない。

東京

東京という街に住んでもう22年間になるけれど、いまだに東京都民として、住んでいたことによって起こった何かよかったことだとか、嬉しかったことは全くと言っていいほどない。身近にあるものほど、普段から手の届く場所にあるものほどありがたみは薄れる。離れてみて、初めてそのありがたみが分かる。地方に住んでいる若者にとっては東京は憧れの場所だ。渋谷・原宿・池袋、ごった返した都会の喧騒でさえもそれを体験したことのない人からすればきっと新鮮な体験だ。わざわざ年に数回のお祭りを待たずとも、渋谷センター街に繰り出せばいつでもお祭り気分を味わえる。渋谷QFRONTの足下では夜な夜なラッパーたちがサイファーを繰り広げ、スキルをお互いに競い合う。それは実際の所渋谷だけに限った光景ではない。志木にも志木サイファーがいるし、下北沢にも下北沢サイファーがある。それでも渋谷という光景の中で彼らがライミングをしようと思ったのには、どこかしらに「渋谷」というフィールドの持つ特別な何かがあるに違いない。渋谷は原宿ではないし、六本木も池袋も渋谷ではない。吐き捨てられた路上のガムや吐瀉物、街灯に無造作に貼り付けられたステッカーや、ビル群に取り付けられた巨大な電子掲示板はひとつひとつがそれ自体渋谷という街並を構成するパーツだ。こんなにも雑多で途轍もない街がいくつもある。それがトーキョーファッキンシティー。

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いまのはなし7

 10月になった。このまえ最後にここを更新したのは7月らしい。7月はといえば、とあるIT企業でインターンを丁度していたころで、わりとこれまでとは毛色の違う形態だったのでいささか疲弊していたらしい。いや、明確にそのころ、つまり7月の記事を書いた時の記憶があるわけではないが、記事を見るとどこかしらナーバスな気分を感じる。そういう気持ちのときに文章を書くというのは比較的よい手段で、なにかしらのこう思うことを文章にして吐き出すことである種のデトックス的な効果を得られる。とくに何を書こうというわけでもないし、誰かに何かを伝えたいというわけでもない。これは本当で、誰かに絶対に伝えたい何かというのは今はなにもない。たとえば「時をかける少女」で真琴は自転車に乗る功介と果穂に彼らが自転車のブレーキが壊れているがために踏切の遮断機の前で止まれなくなるということを伝えなければならなかった。それは彼女にとっては「伝えなければいけないこと」だったし、それが彼女以外のだれにとっても伝える必要のあることではなかったとしても、彼女自身にとってはまた別の話だ。まあ、冷静になるとあんな谷のどん底に電車を走らせるというのも街の構造上どうかとは思うが。功介たちの乗る自転車云々ではなくいずれ何か大きな問題が起こる気がする。

 さて、けれども「伝えなければいけないこと」はこれまで思い返してみると少なからず自分自身にもあったのではないかと思う。それは「自分のため」に伝えなければいけなかったときもあるし、「誰か他の人のため」に伝えなければいけなかったときもある。あのときああ言えばよかった。あのときこうしておけばよかった。結局は全て後悔の一種だ。後悔していないといえばウソになる。自分の人生がそれによってダメになったとか、おかしくなったとか、そういう次元の話ではない。けれど、そうしておけばなにかしらいまはまた違ったものごとに見方だとか、考え方ができたのかもしれないと思う。本当にそうなのかはわからない。自分が経験していないことや、見たことないものを過大評価しがちなのが人間で、ぼくもそこからは解脱できていない。こうしてみると自分の中が後悔でいっぱいの人間のようにも見える。けれど以外にも絶望していないのは今がそんなにつまらないものでもないからかもしれない。死にたくなるということはない。就職活動で上手く行かないと死にたくなるらしい。大学の授業で、ヘーゲルによると人間が人間たるのは承認願望をなにかしらによって満たされているときであって、それが失われると人間は死ぬのだと教わった。まあたしかにそうかもなーとは思う。たとえば家族から村八分にされたり、地元の友達がみんないなくなったり、そういうことだ。大学ではもう最終学年で、同期はもう就職組だ。みんなもう大学には来ないし、大学の構内でばったり出くわすようなあの頃の時間はもう戻らない。これが大人になるということで、みんな自分自身のそれぞれの人生を生きていくのだと思う。むかしは自分が大人になるなんて信じられなかった。学校の教育実習に来る大学生は担任の先生と変わらない大人に見えたし、彼らがぼくやぼくの友達のような大学生だったとは、今思い出しても思えない。そうこうしているうちに僕ももう22で、世間ではまだ若い世代だ。大学入学後はすぐには大学に馴染めなくてなあなあに毎日を過ごしていたけれど、19から22まではめちゃくちゃに早かった。信じられないスピードだ。僕にとって大学はちゃんと勉強をする場所で、真面目に授業もちゃんと受けていた。以外にも授業は楽しいものが多くて、そりゃもちろんつまんない授業だとか、夜ふかししてしまった日の翌日の授業では寝ることが多かったけれど、それでも概ね自分が知って損をするような授業はなかった。そんなこんなで自分の意識の高まりとともに休学をしてインターンをしまくった。一年という休学の期間は終わってみるとそんなに長くは感じなくて、終わってみると本当にあっけなかった。大学の知り合いはぼくとはまた違うスピードで時間を過ごしていて、一足に先に社会へでるらしい。ちょっと前まで同じ大学生だった彼らが社会人になるということはそれはもちろん自然なことなのだけれど、それがあまりにも自然すぎて違和感を感じる。高校を卒業して大学に入学して、ぼくはすぐに大学生になったけれど、そこに高校生と大学生の違いがあったのかと言われると、まったくなかった。たぶんそこには違いなんてなにもない。卒業したサークルの先輩たちはなにも変わらず先輩だし、同期もきっとこれからも同期だと思う。人生の夏休みとも言われる大学での生活でできた友人たちがまたひとり、またひとりと減っていくのは寂しさを感じる。これが結局ぼくの言いたいところだ。これまでは、小学校を卒業しても、中学を卒業してもみんなはまだ若くて―それが社会人になるとどう変わるのかはわからないけれど―おなじ高校生で、そして今は大学生だった。ぼくは自ら自分の選択を下して、それは結局のところ間違ったものではなかったし、むしろ良い結果として実を結んだ。それでも選択を下すということは他の選択肢を潰すものだったし、得るものと引き換えに失うものもあった。ぼくの過ごせる時間は直列的で、なにかを一気には選べない。どうやらそれに納得できるほど、ぼくはまだ大人ではないらしい。でもそれに納得するのが大人で、ぼくは大人にならなければいけないと思う。

ちなみにこのラップを聴いていてこういう文章を書く気分になった。

いまのはなし6

 久しぶりに7月分の記事を更新しようと思う。実は意外にも毎月記事を一本は必ず書こうと思っていた時期があったのだが、なんだかんだでちょこちょこと忙しい時期が重なりいつのまにやら6月になってしまっていた。6月はというといわゆるハッカソンにでたりサークルのライブに行ってみたりと実はいろいろと盛りだくさんであったので、それが記事更新の忘れにつながっているのかもしれない。それだけなんらかのイベントまみれで充実していたのなら別にブログの記事は更新しなくてもいいかという気持ちにもなるというものである。

 ところで実際こうして記事を書き始めると、やはりというかなんというか、全く持って書くことなどなかったということが分かり始めるわけである。このブログのこれまでの記事を見てもわかるが、特に何かしらテーマがあって文章を書いているわけではないのであって、そこへこうして無理矢理に毎回文章を放り込んでいるということは、当然雑多な内容のものになるわけである。テーマの指定がないというのは非常にむつかしい。誰かに何かをやれという意思のもとになにか行動をするのは非常に楽だ。それは最終的なゴールや、達成するべきものがすでに明確になっていて、ある場合においては自分の考え方や工夫が全く持って必要とされないことも起こりえる。そうなれば、思考を巡らせる必要もなくただ淡々と作業をこなしていけばよいというだけである。これを選んで好むようになってしまうと、実際には社会的な評価というものが著しく下がるような気がする。言い換えればそうした作業しかできないロボット同然だからである。ロボットのように動く人間は、自ら故障を認識して修理できるという利点もあるが、一方でそれこそ精神的なコンディションや、気分などのような非合理的な原因の元でパフォーマンスを落とすこともある。そうなれば、結局ロボットのほうが今の時点では、単純労働をする人間より優れているという見方もできるかもしれない。だがしかし、その社会的評価とはなにか。社会からこいつは使える人材だという評価を下されることがそんなにもスバラシイことなのか。実際はそうは思わない。アウトローではあるが、労働力として優れている人間が必ずしも優れているのか。この点を評価するのは様々な角度からむつかしさがつきまとう。自分自身がどういう評価を求めているのかという見方をすれば、最終的な着地点は見つかるはずであるが、それを納得できるかできないかも、自分自身の納得にかかっているというわけである。私見ではるが、世間一般の多くの人間は、苦せずして対価を得られるものを好む傾向にあると行ったところで、何人からも批判を受けることはあるまい。もちろん楽できるなら楽したいし、ストレスは抱え込みたいくない。一方で、全くもって働かないというのも僕個人としては、ひとつストレスの要因になるものではないか。それはいわゆる承認欲求とよばれるもので、楽している自分が誰からも必要とされていないことになんとも違和感やストレスを感じるというのだ。傍から聞けばなんと傲慢な、と思うこと請け合いであるが、これに同調できる人間はさほど少なくないはずである。多少哲学てきではあるが、自分が生きる理由とは果たしてなんなのか。それを考え始めるとキリがないが、もっとも根源的で納得が行くものはまさに誰かから必要とされるということである。まさにきくだけでは他力本願の頂点のような見方であるともとれるが、自分以外の人間によって存在を肯定されている、いやそれどころか存在を必要とされているというだけで、生きる理由の答えは出たも同然である。この世の中には答えの出ないものが腐るほどあって、人間の生きる理由なぞすでに何千年という歴史の中で腐り果てている命題ではないか。そうした腐敗物を処理するひとつの優れた方法のヒントは承認欲求の中に隠されているわけである。いやしかして、その承認欲求を満たすことはそう簡単ではないというのが私見である。自らの何かを認めてもらうためには、認められうるだけのなにかを所有していなければならない。いや、仮に所有していないとしても、逆に自分がだれかに見返りにたるなにかを渡せばよいのではないかということもある。どちらも取りうる選択肢ではあるが、一概に答えがだせるものではない。我々は人間であるし、人間の存在は非論理的である。合理的選択の根底に眠るのは非合理的な直感ではないか。心臓を持ち、人体という入れ物の中で生きている限りは「生きたい」という欲求から逃れることはできないし、それを無視して選択を生み出せる人間はもはや人間ではない。

いまのはなし5

 ゴールデンウィークが終わりに近づいている。ゴールデンウィークという名称からゴールデンウィークは毎日がゴールデンなものなのかと思っていたが、今年はそうでもなかった。去年は友達と旅行にいったりしたわけであるが、今年はその彼も就活で忙しいとあってなにも起こらなかったというわけである。何も起こらなければ自分で何かを起こせばいいのでは、というのは至極まっとうな意見であるが、何かを起こす気もとくになかったのはこのゴールデンウィークがゴールデンではなかった理由のひとつであろう。なにかしなければ!という思いはあるものの何をすればよいのか思いつかないのがこうした比較的長い休暇の問題である。賢い人間はあらかじめこの休暇を見越して予定を立てておくのであるが、なんのプランニングもできなかったことにはひとつ後悔がある。考えてみれば、ゴールデンウィークは年に一回しかないわけで、大体80程度まで生きると考えてもなんと二桁台しか消費できるゴールデンウィークは残されていないのである。そのうちの一回をこうしてそのへんの公園のベンチで寝て過ごしてしまった影響はこれまた大きい。

 いや、大きいかどうかはさておきにしてもあえて考えてみればひまであるが故にいまこうしてブログを書いている、というのはあながち悪いものではない。基本的に毎回テーマを持ってブログをかいているわけではなく、特に何もすることがないからちょっとブログの記事でもかくか〜くらいの気持ち・モチベーションでここまでの行を埋めているのである。他の人がどういうモチベーションでブログを書いているのかは分からないが、おそらくアフィリエイト、ブロガーとの交流、日々の記録あたりではないのか。それはそれとしてとてもすばらしい理由である。もし自分の記事も多くの人によまれてアフィリエイト収入が入ってくるレベルになれば、それはそれは大したものである。

 とはいえ、その種のお金を生み出す系の記事を書くには実は少なからずスタミナを使うような気がする。いや、本当に才能のある人間は息を吐くようにお金になる記事を書き出すことができるに違いない。だが、それはまさに才能のなせるわざであって、普通のひと(いや、自分が普通かどうかはこの際言及しないとしても)はある程度の下調べやらなにやらをこなしてようやくブクマがつくかつかないか程度のものなのではないか(ここまで書いても、結局最終的にはただの推測にしかならないわけであるが)それはしかし努力としてお金とは違うタイプの貯金を蓄えることができると考えればまあポジティブであるが、いずれにしても何を言いたいかというと時間と手間をかけずには読ませる記事を書くのはまだ僕には難しいということである。

 いや、とはいえ自分だけがこうであって他人が違うのではないかというアイデアはあながち間違ってはいない。自分は比較的注意が散漫な傾向があって、むしろその散漫さが実は好きなのである。事実これに関しては社会的な評価の別れるところではあるが、次から次へと矢継ぎ早に様々な話題に触れては次へ触れては次へと移り変わっていくのは非常にどことなく面白さがある。ニコルソン・ベイカーの小説などはまさにこのタイプを髣髴とさせるもので、ひとりに男の思考が物語のなかで延々と垂れ流されるのが最高である。むろん普段の生活の中ではちゃんとコンテキストを考えてまともな思考をしているわけであるが、プライベートでの脳内はまったくはちゃめちゃである。とくにひとりで散歩をしているときの思考の流れ方はさしずめ濁流にも似たものである。むろんいまさに書いているこの文章も実際なにもさきのことを考えずにダラダラを書いている泥水のような文章であるが、これもまた非常に気分がよい。最初の方に書いた文章でも一度述べたことではあるが、誰かに読まれたり評価されたりするための文章を書くのは好かなからずスタミナを必要とするのである。言葉遣いやら文法やら文章構成やら、考えるだけでもう指の動きは千分の一以下に落ちる。これはひとつプログラミングと設計にも似ているのではないか。よしやるぞと意気込んでプログラミングを始めるまえに、まず一歩下がって冷静に設計を行うのは何よりも大事である。これが最終的にスケールする予定であれば、ここに時間を割かない理由はない(いや、予定外のスケーリングが発生するのであればなおさら重要である)簡単なチュートリアル的なコーディングやら練習ならこの限りではないが、それでも普段からこのタイプの思考を身に着けていることによってスタミナの消費量の軽減、ないしMAXを増やすことに繋がるかもしれない。たぶん。

 

いまのはなし4

 いつの間にかアメリカから東京に帰ってきていた。もちろん比喩的な意味での「いつのまにか」ではあるけれど、自分が実際にアメリカにいたという事実は思い出してみると以外にもウソっぽいのである。それはたぶんアメリカという場所が思ったよりも普通で、ハッカソンやらその他のイベントを除いてはさして日本と違う国ではなかったからなのかもしれない。いや、もちろん住んでいる人が日本語を話さないという意味では明らかに違ってはいたが。それでも最終的に落ち着くところは、その程度の違いでしかなかったという事実であった。スターウォーズの世界にはコルサントという星全体がひとつのアーバンな感じの陸地になっていて、作中では緑も水もない無機質なハブ惑星という感じに描かれている場所が登場するわけだが、つまりあの惑星では我々の住むこの地球のような地上を区切った国々というものが存在しないのではないかと思っていた。「思っていた」というのはもしかすると、じつはコルサントにも複数の国家が区域を持って共存しているのではないかという疑念をいままさに書きながら捨てきれないからである。スターウォーズのファンの中にはそんな情報どこにあるんだよと言わんばかりのコアinコアな深い情報を持っている人びとがたくさにいるというのは無論周知の事実であるわけだが、そんな彼らに聞けばきっとコトの真相がわかるであろう。それまでこの問題は「かもしれない」問題としてあくまでぼんやりと当り障りのないかたちでここに置いておくことにしようではないか。

 しかし作品としてのスターウォーズの優れたる点とは、こうした作中でさして大きな役割を与えられていない人・モノ・コトにも大いに考察をさせうる点が多く残されているというところである。少し前であるが、スターウォーズ・ファクトファイルという週刊誌(この呼び方があっているのかどうかは個人的には少し疑念が残る)が発売されていたのをスターウォーズ・ファンの我々はしっかりと覚えている。その当時僕は小学x生で、なぜいつ好きになったのかは全く定かではないが、スターウォーズにドハマりしていたのである。僕のよく一緒につるんでた同級生たちも、ほかのやつらと比べると比較的スターウォーズへの理解と造詣があり、僕は彼らと頻繁にスターウォーズのはなしをしていた。その当時は厳密にスターウォーズ自体の世界観やストーリーの流れをおそらく理解はしていなかった。ただ、XウィングやAウィングのようなビークルがカッコイイ、それだけが僕の心を掴んでいたわけである。しかしいま20代になったいま改めてスターウォーズという世界に足を踏み入れてみると、その精巧に作られた世界観に溜息がでるほどなのである。もちろんビークルはいまでも最高にカッコイイが、それ以上にスターウォーズの世界に生きる人々のクセや非現実感に取り込まれるといってもよい。ジャンルとしてスターウォーズはSFのまさにマスターピースであるが、ブラスターの音から、兵器の汚れまでなにからなにまでが突飛でいきすぎたSFのそれではない。

 SFでありながらSFっぽくない。それがスターウォーズの良さだと思う。

いまのはなし3

 自分がいま滞在しているシェアハウスの近くにはピーツ・コーヒーというサンフランシスコで広くチェーン展開しているカフェテリアがある。正直なところ、日本にいたときにはスターバックスはおろかベローチェだとかサンマルクとかには全然行ってなかったわけで、いまでも店に入ってラテとか言われてもぱっとは頭のなかで想像しにくい。

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 さてこのピーツ・コーヒー、正式名称はピーツ・コーヒー&ティーというらしく、比較的酸味の少ない苦いコーヒーで有名らしい。どこのコーヒーがうまいとかまずいとかそういうはなしには全く持って門外漢なので味に関しては実はどこでもよかったりする。ここサンフランシスコには日本でも一瞬、いやしばらく騒がれたサードウェーブ・コーヒーとして有名な「ブルー・ボトル・コーヒー」があって、少し前に試しにいってみたときには、地元のコーヒー・ラバーたちがこぞってブルー・ボトルのコーヒーを楽しみに来ていた。本当は家でじっくりラテの味を楽しみたかったのだけれど、何を血迷ったかhereと行ってしまったので、ちっこいカップにはいったコーヒーを窓際の席で飲んだのを覚えている。

 もちろんなのではあるけれどブルー・ボトル・コーヒーは高かった。今のレートがどの程度かわからないのでなんとも言えないけれど、確か7ドルくらいは取られた気がする。そう考えると7ドル払ってエスプレッソでもないのにあの量はちょっと高い気がする…いや、こういうセコい考え方でコーヒーを飲むとろくな事にならない。そもそもコーヒー自体が沢山ガブガブ飲んで楽しむビールの類とは違う一口の苦味と酸味を楽しむ紳士の飲み物なわけだ。この観点から言えばブルー・ボトル・コーヒーの一杯のいかに妥当なことか!

 ちなみにピーツ・コーヒーはどうなのかというと、まあ普通である。普通が人それぞれ一番バラける基準のある言葉であるという枕を添えても、まさに普通のプライスである。たぶん。今日注文したのはエスプレッソのカフェラテであるが、これがミドルサイズで3.80ドル。日本円にすると…計算するのがダルいのでここでは割愛するが、それよりもピーツ・コーヒーの(というよりサンフランシスコのカフェの)ミドルサイズは日本で言うトールくらいはあるのだ。正直全部飲み終わる頃にはもうコーヒーはむこう3日くらい入りません…くらいの気分にもなれる。それだけ満足させてもらえるなら4枚のBucksなんて大したことはないのである。

 自分はコーヒーでも比較的甘いモノが好きなタイプだと思っていたが、実際にはそういうわけではないらしい。むろんまだブラックの良さには全然気付けないヤング・ガイではあるのだけれど、アイスクリームを溶かしたような甘ったるいスターバックスのチョコチップうんちゃらよりかは、それこそこっちのピーツ・コーヒーのような苦味の強いやつのほうがこころが落ち着くような気がするからである。気がするだけなので本当にココロが落ち着いているかどうかは分からないが、「病は気から」とも言うようにまずは気持ちから変えていくのが大事であろう。そのためにコーヒーを飲むとすれば、コーヒーはまさに精神安定剤ではないか。

 いまインターンをしている会社に、自分と同じ期間インターンをしているいわゆる同期の人間がいるが、彼は自分の体のデータをウェアラブルデバイスで測定し、あらゆるデータを数値化し、自分の生活を最適化しようとしている。アップルウォッチのような体に身につけるデバイスは日本ではあまり使っている人は見かけないが、こちらでは割りといろんな人がつけているのを見ることができる。加えて、それとも別にFitbitやJawboneなどというブレスレット型のデバイスがあって、それはiPhoneなどと連動して詳しいデータを記録してくれるというスグレモノである。彼のデータによれば、なんと彼は毎朝起床の約1時間あたりは眠りが浅いので寝る必要がないらしい。ふむ、なるほど、では今度から早めにおきるとしよう、となって起きれればいいが、残念ながらウェアラブルはそこまでの面倒は見てくれない。少なくとも手元をブルブルと振動させてくれる程度のことはしてくれるようだが、それ以上の気の利いたことはもはやブレスレットの範疇を超えている。手首のあたりから電気ショックを与えるのも一つ悪くない方法かもしれないが、そこまで乱暴に起こされては目覚めいいもヘッタクレもない。

 こうした類の自分の身体や生活をデータ化してもっと良くしていこう、みたいな考え方はSpaceXイーロン・マスクやらアップルCEOのティム・クックみたいなLife is work的生き方の総本山の人たちが積極的にやっている印象があるわけだが、もはや彼らのような次元に達してしまえば、まず体を壊すことが企業の存亡に関わること間違いないはずで、ある意味もはや肉体が精神についてこないという事故を未然に防ぐための積極的健康というようにも思える。ウェアラブル・デバイスは決して人間の身体機能を増強しうるものではないのでそれ以上のことができるわけではないが、とはいえ件のコーヒーを飲むと精神が安定する気がするのは本当に安定しているのか、はたまたやっぱり「気がしている」だけなのか、みたいなものがデータとして取れるからには次はいつどれくらいの量のコーヒーを飲むのが自分にとって最適なのかというデータを算出する助けにもなるかもしれない。しかし、とはいえ携帯の電池残量が数値で見えることで余計にバッテリの減りを実感してしまうように、無駄に体の変化がデータとして取れてしまうと、自分の身体能力の衰えだとかある種の抗えない後退にショックを受けることもあるかもしれない。ただ、こうやって自分をデータにしようだなんて考える人達はそもそもそんなことで一喜一憂しないメンタルの持ち主なんだろうけど。